夢小説という性的消費が抱える葛藤

 待望していた『アイドルについて葛藤しながら考えてみた ジェンダー/パーソナリティ/〈推し〉』を読んだ。とりあえず第5章の感想を書く。

 私はここ数年、アイドルのようないわゆる「推される」存在をまっすぐにまなざすことができなくなっていた。それは性的視線や性的消費への罪悪感が常につきまとうからである。そして、そのような葛藤を抱える自分にまた劣等感をも感じる。純粋に「好き!」と叫べる対象がいる人たちを羨ましくも思う。しかし私からそう見える人たちだって、同じように葛藤を抱えながらアイドルや推しを見つめているかもしれない。

 第5章に収録されている「キミを見つめる私の性的視線が性的消費だとして」では、筆者金巻ともこの葛藤が見てとれる。金巻は本稿の中で繰り返し「そこに生身の肉体があって、相手の心身に被害が及ぶときだけが罪であって、生身の肉体に視線を注ぎ、欲望を抱き、消費すること自体は罪ではないのだ」と述べる(p.124)。(ここでの「視線」とは「心の内にもつまなざし」の意。)

 アイドルの性的消費と言われて私がまず思い浮かべるのは夢小説だ。ここで言う夢小説とは、特定の人物(架空・実在は問わない)との関係性を描いた小説である。恋愛関係を中心として書かれ、主人公に自己を投影して読む場合もあれば、特定の人物同士の同性愛の様子を描いたものもあり、そのバリエーションは多岐にわたる。特に実在する人物の夢小説はナマモノ(ネットスラングnmmnと表記されることもある)と呼ばれ、夢小説の中でも異端な存在とされてきた。また実在する人物を対象にすることから非常にデリケートであり、アングラ化している夢小説界隈の中でも特に表に出ることのなかった文化である。しかし、ナマモノの夢小説はファンダムの一つの形としてたしかに存在する。アイドルたちを性的な視線で見つめ、それを表現し共有する場となっている。

 先に引用したように、性的視線を心のうちに持つことは決して罪ではないし、そこに性別は関係ない。夢小説は、性の主体性を男性が持つ中で女性たちが主体的に自己の性欲と向き合い作り上げてきた文化でもある。金巻の主張に沿うのであれば、夢小説は発表されることや読まれること自体は罪ではない。アイドル本人の目に留まり、それがアイドルを傷つけたとき初めて暴力となり、罪となる。

 そもそも、ナマモノの夢小説自体が本人のキャラクター性を切り取って表象されるものだと私は考える。書き手の中には、夢小説に登場する人物はあくまで他人の空似であると但し書きを添える者もいるくらいだ。あけすけな言い方をすれば、この人はこういう性格で、グループの中ではこういう立ち位置で、こういう振る舞いをしがちだというところさえ把握していれば夢小説は楽しめる。書き手に回る場合は、口癖や恋愛に対する考え方なども知っておいたほうが解釈の不一致を避けられるだろう。しかし、夢小説に本人の言葉や思想、哲学はほとんど必要ない。夢小説が消費するのは、あくまで表層のキャラクター性の部分のみである。

 もちろん、だからといって夢小説がその暴力性から逃れられるわけではない。描かれた当事者が見れば好き勝手に表象された自分の姿に不快感を覚えるだろう。だからこそ、夢小説にかかわる人々は隠語や検索避けなどの配慮をする。

 そうであるならばなぜ、私は夢小説という文化を興味深いと感じながら同時に後ろめたさを抱えるのだろうか。先にこれは私個人の所感であり、夢小説にかかわる人々全体を代表するものではないことを示しておくが、私の場合はアイドル本人のパーソナリティを知りすぎてしまうと、性的消費の対象にすることにためらいを感じるようになるのだ。昨今、アイドルは様々な媒体を通して「推す」人々に声や言葉を届けてくれる。我々は少し手を伸ばせばいとも簡単に、アイドルのパーソナリティの一部(として提供されるもの)を受け取ることができる。それらのいくつかを拾い集めれば、徐々にアイドル個人の人格の断片を窺い知ることになるだろう。キャラクターではなく一人の個人としてアイドルをまなざすようになったその瞬間、夢小説に描かれる人物が本人の人格とは全く別のものであることが再認識され、本人の姿形をイメージして性的消費をすることに罪悪感を覚えることになるのだ。

 私はこれからも夢小説を読むだろう。なぜなら夢小説をとりまく世界は非常に面白く、興味深いからだ。抑圧されてきた女性たちの欲望が解放される場でもある。夢小説は女性解放やフェミニズムという文脈においてもっと注視されてよい文化だ。その一方で、夢小説を読むたびに、そして描かれているアイドルについて知るたびに、葛藤は強くなっていくだろう。すぐに答えは出ないかもしれないが、せめて一瞬でも立ち止まって考えたい。できたらもっと多くの人と一緒に考えたい。夢小説とそこに描かれる人たちのことを。